気がつけば、年が替わっていた。
昨年8月のコラムから約5ヶ月も更新していない。
(”気がつけば”この枕詞?も、何度使った事か・・・)
その間、世間では様々な事が起きている。
最も大きなニュースの一つは、何と言っても12月の解散総選挙による、民主党の大敗、自民党の圧勝に終わった政権交代だろう。
3年3ヶ月前の民主党政権樹立時は、308人となった民主党衆議院議員が、この総選挙で、57人と5分の1以下に激減してしまった。
と言っても、政権与党の間に、民主党の内紛により自ら瓦解し、選挙前は78人減の230人とはなっていた。
(”民主党!”と期待して投票した国民の意思に反する事への躊躇など微塵も無かったかの如く、4人に1人が離党している事となる。
国民一人あたり250円、総額約300億円超の政党交付金で支える「政党政治」とは、一体何なんだろうか。)
選挙結果に対する分析は、其処ら中で行われているので、私が敢えて語る必要もないだろう。
さて、日本の政治の質が低下しているとも言われるが、小沢一郎氏のここ20年間の国政での動きを省みて、日本の政治を少しだけ考えてみたい。
(新年早々、我ながら随分と大それたテーマである・・・)
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小沢一郎氏(1942年5月24日生)は、若干27歳で自民党公認衆議院議員として初当選して以来、知らない人は誰もいない日本の政治家である。
当時としては驚異的な47歳という若さで与党自民党の幹事長に就任、竹下派(経世会)の事実上の実力者として正に剛腕を振るっていた。
東京佐川事件をきっかけに、竹下派が分裂、1993年小沢氏らは羽田派を旗揚げし、反主流派となる。
同年5月、小沢氏の著作である「日本改造計画」が発表されている。
あれから、ちょうど今年で20年である。
この20年間の政治の激動と混乱は、正に小沢氏との歴史と大きく重なる事となる。
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小沢氏の動きを主軸に年表風にしてみた。(勝手な私のコメントが混ざるが、お気にせず・・・)
前半(1993〜2003年)
**細川内閣誕生から自由党解党まで**
1993年
5月 宮沢内閣不信任案が、
小沢氏らの賛成で可決し、衆議院解散へ。
(小沢氏の非自民へのターニングポイントである)
6月 小沢派・羽田派が離党して
「新生党」の結成。(衆議院議員36人参議院議員8人 党首 羽田孜)
7月 解散総選挙 自民党過半数割れ
8月 小沢氏の主導で8党派連立政権
「細川連立内閣」の誕生。
(38年間続いた自民党政権が終り、小沢氏主導の非自民政権の誕生である。
細川氏も後継の羽田総理も、元々は自民党出身者である)
1994年
1月 非自民の細川連立政権のもとで、衆議院の選挙区制度を
小選挙区・比例代表並立制にする法案が成立。
(小沢氏が目指す二大政党制を目指す選挙制度の導入が決まったのである)
2月 小沢氏と旧大蔵省の主導により、細川総理が、当時3%だった消費税を廃止し、
7%の「国民福祉税」を導入すると突如発表。
与野党・世論の総スカンを買い、翌日には撤回。
(小沢氏は、元来の増税論者だったのであろう)
4月 「やってられない!(多分)」と細川総理が辞意。
羽田内閣誕生。
(ゴタゴタから社会党が連立離脱して、少数与党に)
6月 内閣不信任案成立
内閣総辞職へ。
首班指名選挙で、自民党がウルトラCの
村山富市社会党委員長を内閣総理大臣に指名。
(1955年の自民党結党以来、初の自民党籍の無かった総理の誕生である)
新党さきがけを加え、
「自社さ政権」の誕生。
(新党さきがけには、鳩山由紀夫氏、菅直人氏、前原誠司氏、玄葉光一郎氏らがおり、後の民主党政権においても中心的な人材が多くいたのを覚えているでしょうか?)
小沢氏は、次期総選挙から施行される小選挙区・比例代表並立制での自民党に対抗するために、野党各党が合流し、新・新党の結成をする流れを一気に進め、新生党・公明党の一部・民社党・日本新党などを結集して
「新進党」を結成。
(初代党首 海部俊樹元首相。
衆議院議員176人参議院議員38人の計214人のかなりの勢力である)
1995年
7月 参議院選挙
新進党は、改選前議席19議席を40議席と倍増。
(とするが、党内は小沢グループVS羽田グループの相次ぐ対立の中、小沢党首の就任。
党内分裂の様相のまま翌年の解散総選挙へ・・・最近もどこかで見た風景である)
1996年
10月 消費税5%への増税の是非を問う
橋本内閣による
解散総選挙。
初の小選挙区・比例代表並立制による衆議院選挙である。
新進党は、「20世紀中は消費税率を上げない!」と訴えた。
(2年前に7%って言ってたのは誰だったのか・・・)
「自民党・新進党」の二大政党制を一部では期待されたが、反自民票が結成直後の民主党と分散するなどで、解散前議席数に届かず。
羽田氏・細川氏離党。
小沢氏、自民党との大連立構想を模索(保保連合構想)。
(2007年の福田内閣時代の話ではありません)
1997年
12月 任期満了に伴い党首選で小沢氏が再任。
新進党が6党に分裂。
1998年
1月 小沢氏、
自由党を結成(衆議院議員42人参議院議員12人 党首小沢一郎)
7月 参議院選挙 6議席獲得
参議院の首班指名で民主党の菅直人氏に投票するも、自民党との連立合意が成立。
小渕内閣の誕生
11月 自自政権の誕生
(紆余曲折を経て、古巣の自民党と連立、2大政党制を目指していたのではなかったのか?)
1999年
10月 公明党が連立政権に参加。
自自公政権へ
2000年
4月 時の小渕総理に、自民・自由両党の解党による政界再編を迫るが、受け入れられず。
連立政権から離脱
自由党分裂
(一部保守党に)
自公保政権へ。
森政権の誕生
2001年
4月 小泉内閣誕生
2003年
7月 民主党と自由党の合併合意
9月 自由党を解党し、民主党に吸収合併へ。
11月 解散総選挙
民主党は177議席を獲得し大きく躍進。
日本初のマニフェスト選挙となり、高速道路の原則無料化、年金制度の一元化、衆議院定数の80削減などが、この頃から叫ばれる。
ざっと、前半の10年間ほどで、これだけの動きである。
多くの政局がらみの動きが、小沢氏が大きく関与していると言わざるを得ないだろう。
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もう少しだけお付き合い頂きたい・・・
後半(2004年〜)
**民主党時代から更なる離合集散へ**
2004年
5月 年金未納問題で菅直人氏が民主党代表を辞任した後、小沢氏が後継に内定したが、
小沢氏にも未加入時期が発覚し就任を辞退、岡田克也氏が無投票で代表に。
7月 参議院選挙
民主党は、自民党49席を上回る50議席を獲得し、政権選択選挙に現実味を。
小沢氏副代表に。
2005年
8月 小泉首相による
郵政解散「総選挙」
民主党はマニフェストで、「政治主導」「公務員人件費の2割削減」「徹底した無駄の削減→18兆円の財源を地方に委譲」「コンクリートから人へ」などを訴えた。
(忘れている方も多いだろうが、政権交代時の2009年のマニフェストの骨格には、2003年と2005年の解散総選挙のマニフェストの中に、既に多くが包含されていたのである)
結果113議席へと大きく後退。
岡田代表・
小沢副代表も引責辞任。
9月 代表になった前原誠司氏に、
代表代行を頼まれるが小沢氏は固辞。
2006年
4月 偽メール事件で辞任をした前原代表後を選ぶ代表選で、
小沢氏は第6代の民主党代表に。
9月 党代表に
小沢氏無投票で2選。
安部内閣の誕生
2007年
4月 統一地方選挙で民主党躍進。
7月 参議院選挙
小沢代表の下、民主党「国民の生活が第一。」のスローガンで60議席で大勝し参議院第1党に。
8月 前原・岡田両副代表が就任し挙党体制を構築。
(これより、
ねじれ国会となり、衆議院の3分の2再可決ラッシュとなる)
9月 安部総理辞任
参議院の首班指名選挙では、
小沢氏133票、福田氏106票となるも、衆議院の優越規定により、
福田内閣の誕生。
11月 小沢代表は、
福田総理と大連立を会談、
党に持ち帰るが、党内の猛反発で断念。
小沢氏は、引責辞任を決意するも留意され代表を継続。
2008年
1月 ガソリン国会
暫定税率延長を訴える与党と、廃止を訴える野党との徹底抗戦。
(再可決の空白により、ガソリン等が1ヶ月間下がったのだった。そこまでして反対した民主党は、政権奪取後には・・・)
9月 党代表に
小沢氏無投票で3選。
福田内閣総辞職
麻生内閣誕生
2009年
5月 西松建設疑惑で小沢氏党代表を辞任。
鳩山由紀夫氏代表就任。
小沢氏選挙担当の筆頭代表代行に。
9月 衆議院総選挙
多くのマニフェストを掲げ民主党圧勝。
民主党念願の
「政権交代へ。」
鳩山由紀夫内閣誕生
小沢氏幹事長に就任。
2010年
1月 東京地検特捜部は、
小沢氏の秘書3人を政治資金規正法違反で逮捕。
(3人とも1審で有罪に。)
6月 鳩山氏辞任と共に
幹事長辞任。
菅直人内閣誕生
(菅氏、脱小沢路線へ)
7月 参議院選挙
現有54議席から44議席へ後退へ。
またも
やねじれ国会へ
(小沢氏は、選挙前に消費税増税を提起した菅氏に責任があると退陣を迫る)
9月 小沢氏、代表選に出馬。
消費税論議封印とマニフェスト堅持を掲げたが、菅氏が圧勝。
(閣僚から
小沢グループが一掃される)
2011年
1月 小沢氏、陸山会事件で
検察審査会により強制起訴。
2月 小沢氏、
党員資格停止処分へ。
5月 小沢グループに、内閣不信任案を自主投票とするいわゆる
「菅おろし」を進める。
8月 菅総理辞任
代表選にて、小沢グループは海江田万里氏を支援するも、
野田佳彦内閣の誕生。
(小沢氏の更なる求心力の低下。)
2012年
6月 消費税増税関連法案を含む
「社会保障と税一体改革法案」の採決において、小沢グループ、鳩山氏ら
72名が造反。
7月 小沢氏と同調する50人と共に離党届を提出。
(結果、小沢氏ら37名は除籍処分に)
新党「国民の生活が第一」を結成
11月 「日本未来の党」へ合流
嘉田由紀子滋賀県知事が代表に。
12月 衆議院解散総選挙
日本未来の党、公示前の61議席から9議席へ激減。
嘉田氏と小沢氏との対立が表面化。
嘉田氏らが抜けて
「生活の党」へ改称、森裕子氏が代表となり、小沢氏も入れて衆参合わせ15人のミニ政党となった。
(成田離婚と言われているが、嘉田氏ら3人が抜け、日本未来の党に交付される予定だった政党交付金8億6500万円は、生活の党が受け取る事に)
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まずは、ここまで真面目にお読み頂いた一部の皆様に感謝を申し上げます。
激動の小沢20年史を、早送りのようにごく一部をまとめてみても、これだけのボリュームである。
さて、小沢氏に対して、20年前の著書「日本改造計画」に書かれた「小選挙区制」や「政党助成金」など、彼が具現化してきたものも少なくないと評価する方もいる。
自民党に替わる政権を、2度も中核になって成し遂げた実力も、小沢氏あってのものという事は、紛れも無い事実でもある。
一方、先の著書の中では「政治資金の透明化」が、政党助成の根幹となっているが、ご本人はどうだったのだろう。
2大政党を目指した小沢氏が、「政界の壊し屋」と言われるように、自らいくつもの党を作っては壊してきた。
「選挙の神様」とも言われ、自論の2大政党制に近づいた民主党への政権交代に大きな力を発揮しながら、党を割って抜けていくのも自己矛盾のようにも思える。
小沢氏自体、この20年間を自らをどう総括されるのだろうか。
日本の国力において「失われた20年」という言葉が使われているが、ここ20年の日本の政治もしっかりとした検証を行う必要を感じる。
けっして小沢氏に多くを擦り付ける訳ではないが、この20年間の政治の混沌が、今後に生かされるのか、ただの失われた20年となるのか、政治家はもとより国民もしっかりと考えなければならないと思う所である。
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5ヶ月前の前コラムに書いた時に予約したスマホが、1ヶ月後に手に入ったが、自らの予測の通り、どこでもネット状態が、このコラム更新に寄与する事は、欠片も無い事が証明された。
facebookもしかりである。
(環境が改善されたからといって、ようは人の心構え変わらなければ何も変わらないという甚だ明快な適例である)