6月23日、俳優ピーター・フォークが亡くなった。
アメリカのテレビドラマシリーズ「刑事コロンボ」での主役を長きに亘って演じた事が何よりも知られている。
1968年に始まる「刑事コロンボ」シリーズは、1978年までの11年間に45本が放送され、1989年からの「新刑事コロンボ」では、24本が制作されている。
日本では、1972年からNHKが放送を始め、「うちのカミさんがね・・・」で知られる額田やえ子さんの当時としては画期的な翻訳と、故小池朝雄氏の特徴ある吹き替えも見事にはまり、一気に高視聴率番組となったのである。
(1972年と言えば、私は中学1年の時であり、コロンボを夢中で視ていたのを思い出す。
今思えば、部活に、徹夜マージャンに、深夜放送に・・・
そうそう小遣い欲しさに新聞配達もしていた。
我ながら今思えば、そこに「勉強」という2文字は全く無かった事にして生きていた節がある・・・
それでも今までの所、食いはぐれる事が無かったのであるから、不思議と言えば不思議である。)
「刑事コロンボ」のストーリーの殆どは、完全犯罪を企てる犯行シーンから始まり、犯罪現場の実況見分の終わりがけに現れるコロンボが、犯人が殺人事件との係わりを無かった事にするための数々の工作を、些細な疑問点をきっかけに犯行を突き止めて行く過程をドラマにしたものである。
犯人は、決まってハイソサエティーで豪邸に住んでいる。
反してコロンボは、その類稀な才能を表に出す事なく、驕り高ぶる事もなく、ボサボサ頭にヨレヨレのレインコートと愛車のおんぼろプジョーなど、庶民中の庶民の設定で描かれている。
権力VS市民 とも言える構図である。
(調べてみると、あのおんぼろプジョーは1959年式だそうだ。何と私の生まれ年である。私もあちこちガタが出始めても不思議では無いと納得するのである。
と言っても、車は部品さえ取り替えれば何とかなるが、人間様の場合はおいそれと部品交換とはいかないのが大きな違いである・・・
と考えながら今日も酒を呑む。)
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権力VS市民 と言えば、頭に浮かぶのは、他ならぬ菅総理大臣である。
市民運動家から首相に登り詰めた人という書かれ方が多い。
その市民感覚を持った総理となるのかと思いきや、権力の座は相当に座り心地が良いらしく、国民も閣僚も民主党国会議員も近々に総理を辞めると理解した6月2日の民主党代議士会での「辞任?表明」は、既に無かった事のような状況である。
確かに、菅氏は「辞任」という言葉は使っていない。
が、その後の鳩山前総理の「第2次補正予算案の編成にメドをつけたあかつきに身を捨てて欲しいと要請し、2人で合意した」という発言に菅氏は何の否定もしていないので、「辞意表明」として殆どの人が理解をしたのである。
菅氏は、鳩山氏の発言を聞か無かった事にしているようでもある。
7月13日、菅氏は、首相官邸で記者会見をし、「計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と、何の工程表も無く脱原発発言をした。
エネルギー政策は、安全保障にもかかわる重要な政策であり、政府内は元より、国会や経済界を含め国民的な議論が必要であるが、当たり前の手続きも無視して行われた「脱原発」発言は、野党はもちろん閣内・与党民主党からも批判が続出した。
何とその二日後、一転して「私自身の考え」として、政府方針では無いとの認識を示したのである。
内外に発信した総理大臣としての政府方針を無かった事にしたのである。
(これから、首相が記者会見をしても、後でまずくなると「私的思いを述べただけ」という手が堂々と使える前例を立派に作られたのである・・・
もう何でもありの怖いもの無しである)
さて、脱原発発言は、大きく修正されたかのようであるが、突然の浜岡原発の停止要請に始まり、これまた突然の原発ストレステストといい、原子力安全・保安院の「やらせ質問」問題といい、来春には現在稼動中の原発も全て定期検査で一時停止となる状況の中、原発の再稼動を地元自治体の受入れが難しい状況が今のように続けば、菅氏の「脱原発」発言は、あと1年もしない内に、事実上実現するのである。
(ここ数年節電に我慢すれば、主要な工場の海外脱出が大幅に加速しそうなので、電力需要自体が大きく減り、結果的に原発が無くても十分電力が足りるニッポンになる可能性も高い。
国中失業者で溢れるだろうが、一足飛びで「脱原発」社会の到来である。)
ところで、いつの間にこの国は独裁国家になったのだろうか?
6月のG8サミットで、担当大臣である海江田経産大臣が「聞いていない」と驚いた「1000万戸に太陽光発電を設置!」などという国際公約など、枚挙にいとまが無いが、政府の無機能と考えるより、菅独裁国家になったと考える方が理解しやすいと考えている。
(何しろ独裁者だけあって、誰にも辞めさせらないのである)
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「無かった事にする」と言えば、その右に出るものがいないのは、言わずと知れた中国である。
(”その右に出ずる者なし”は、中国の漢時代のことわざからくるものであるが、今の中国は、右派的自由資本主義経済を都合良く取り入れる左派国家であるからややこしい)
今まで、中国では、事件や事故など、新聞やテレビにも出さず、それ自体が無かった事にしていた国である。
(例えば、今でも中国内の検索エンジンでは「天安門事件」を検索しても接続不能である)
ノーベル平和賞を受賞した劉氏の授与式のテレビ放送が突然真っ黒に打ち切るなど、かなり強引な「無かった事」事件にはきりがない。
(いっその事、中国の尖閣諸島への主権など無かった事!としてくれれば良いのだが、そもそも無かったはずの領土問題が海底資源の存在が明らかになると、突如主権を言い出すのだから始末が悪い・・・
それに毅然とした対応が出来ない我が国はそれ以前の問題であるが。)
そこに来て、7月23日中国で起きた高速鉄道事故の対応には、唖然とするしかない。
救助作業もそこそこに、あろうことか高架上に残る破損車両を高架下に落下させ、穴を掘って事故車両を事故現場に埋めたのである。
しかも、事故後1日半後には、運転を再開させた。
(仮に日本の鉄道会社が、事故車両を埋めようとすると、不法投棄にならないように、農地の所有者に交渉し、農地転用を農業委員会に申請、その後廃棄物処理場の許可を得るなど、数年の歳月を要するのである。
まぁ、その前に証拠物件である事故車両はとっとと警察に保全されてしまうので全く意味の無い事であるが・・・
それにしても、こんな中国が、世界第2位の経済大国として、その経済力と急激に伸びる軍事力、大量に保有する米国債などをバックに、世界中にもの申す訳だから、話は穏やかではないのである。)
さて、今回の高速鉄道事故であるが、正に「無かった事にしよう」という行動である。
中国当局として、今まで通りの事をしただけに違いない。
(異民族への弾圧の数々など、無かった事として今まで片付けてきた事と同じように処理しようとしたに違いない。)
しかしながら、大都市上海に比較的近い事故現場では、多くの中国国民がその事故現場をネット上に投稿・掲載した。
爆発的にネットユーザーが増加している中国では、この事故の様子はあっと言う間に国内に広がった。
もはや今まで通りの、当局の人海戦術によるネット削除や規制も追いつかない事態となったのである。
(私が中国共産党幹部だったら・・・
「やりづらい時代になったな〜」
と言っているに違いない。)
慌てた当局は、重機でズタズタにした先頭車両を含め、埋めた車両を掘り出して、「原因究明に当たる」と証拠隠滅説の払拭に動いたので世界中二度ビックリである。
(これで、日本・ドイツ・カナダからの技術供与は無かった事のように、世界一安全な中国の高速鉄道の独自技術と豪語して世界各国に特許を申請した中国だが、輸出を進める中国製高速鉄道の商談も、しばらくの間、無かった事になりそうである。)
「李氏に冠を正さず」
他人から疑われるような事は、初めから避けよ。という意味である。
今から約2,200年前の前漢の時代の中国の言葉である。
2,200年経った現在の中国政府に、そのまま差し上げたいことわざである。
(ついでに、日本の菅政権にもそのまま差し上げたいかも・・・)